復帰摂理歴史の真実 |
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■ 第二章 第二節 イスラエル12支族
e. 神殿崩壊の意味するもの 1. 復帰摂理での神殿の役割 (1) 神殿の象徴するもの @ 聖所と至聖所
『原理講論』には、至聖所はイエス (創造本然の人間) の霊人体を象徴し、聖所はイエス (創造本然の人間) の肉身を象徴するとあります。
預言者エレミヤは、神殿の崩壊を、ユダの人々が異教の神々を拝むことで決定的となると預言したのですが、アッシリアの影響を受けて、アハズ王のとき異教の神々が神殿の中に祀られてしまったのです。ヨシヤ王のときエレミヤの預言を聞き入れて、あらゆる異教の偶像を取り除きはしたものの、時は既に遅く、偶像崇拝はユダの民に浸透し始めていました。そのため、ヨシヤ王の宗教改革も長くは続かなかったのです。 預言者エレミヤは言います。 「民一人一人が、自らの意思で心から神と新しい契約を結ぶことが必要であり、その契約を結ぶ時代はいずれ訪れる」と。
そして神は、「その日に心に割礼を受けていないすべての人を罰する。だから、心の割礼は体の割礼よりも重要であり、あなた方は、わたし (神) を知っている事を誇りとし、他の事は誇って名ならない」 と語られました。その日とは、メシアの降臨する日です。
さて、ここで上記の内容をまとめてみましょう。至聖所と聖所からなる神殿は、それぞれイエス (創造本然の人間) の霊人体と肉身を象徴していることから、至聖所と聖所で一人の人間を象徴していることになります。つまり、神殿全体で唯一絶対の神を現しています。神は本性相と本形状の二性性相の統一体とする原理 (『原理講論』p46) から、至聖所が本性相であり、聖所が本形状であるといえるでしょう。 ところで、以前から取り上げた夜の神様と昼の神様はこの本性相と本形状に該当します (詳しくは次ページで)。 結局、神殿の至聖所と聖所は、人間の心と体、家庭では夫と妻がそれぞれ該当します。しかし、その基本は、一人の人間として神の道に則した心 (心の割礼) に従って行う (義) ことが前提です。このような個人が家庭を形成 (善の家庭) し、社会を形成 (善の社会) することが理想といえるのです。 しかし、ここで最も重要なことは、“相手を思う慈しみの心” としての “愛” が漂うことで、上記のエレミヤ書からはイエスの “山上の垂訓” (マタイによる福音書5章1節〜20節 ; ルカによる福音書20節〜38節) を思い起こさせます。 文師が語る “故郷” とはこのような神の愛が息づく地であり、そこが、「神が昔あなたがたの先祖に与えた地」 なのです。それ故、“還故郷” とは、単に生まれた故郷に帰ることではなく、「還」、つまり、自分の生まれた故郷すべてを元の持ち主としての神に返すことなのです。 A 神殿の崩壊は、聖所と至聖所の分裂
この部分は、次のように書き直してみます。 イエスが十字架につけられたとき、聖所と至聖所の間に掛けられていた幕が、上から下まで真っ二つに裂かれたということが、イエスの十字架による霊的救いの摂理の完成によって、霊人体と肉身とが、そして、天と地とが、互いに交通し得る道が開かれたということを意味するのであった。 一文字の違いでまったく意味の違う文となっってしまいます。 このところの内容は、「イエスが十字架に掛けられたことで、イエスの肉身から霊人体が分離した」 ことを、「聖所と至聖所の間に掛けられていた幕が、上から下まで真っ二つに裂かれた」 ことで象徴されているのです。そして、この分離されたイエスの霊人体が天上において、十字架での霊的救いにおける摂理の完成 (この内容は次章になる予定です) によって、地上における聖徒の霊人体が通じ合うようになったこが示されています。
このような事から、神殿の崩壊が意味するのは、神の地上のにおける住まいとしての神殿が、がイスラエル選民、とくに南ユダの不信によって存立できなくなってしまったっことです。 しかし、南ユダ2支族は真に悔い改めることができたならば、その不信による罪は贖われていたことでしょう。 また、アッシリアに捕囚となった北イスラエルの10支族は、一つにまとめて捕囚されていたとしたら、帰還していたのかもしれません。ところが、アッシリアに連行された10支族は、数箇所の離れた地に捕囚されたため、それぞれが帰還することなく全く違う道をたどり、消息を失ってしまうのです。
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