復帰摂理歴史の真実 |
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■ 第二章 第二節 イスラエル12支族
c. 統一王国時代 (下) 1. ダビデと神殿 (1) 神殿の意味するもの @ ダビデの神殿建設に対する思い
ダビデは、神の家となる神殿を建てることを望みましたが叶いませんでした。神は、ダビデの子であるソロモンが神殿を建てることができると言われたのです。それはなぜでしょうか。 モーセの時に神のみ言葉である 「十戒」 を記した石板は、“契約の箱”に収められたままでした。そして祭司によって担がれて移動し、幕屋に納められてはまた担がれて移動していくのが常でした。しかし、ダビデの時、神は 「わたしは香柏の家に住んでいる」 と言っておられますが、この “香柏の家” とはダビデ王の宮殿のことで、そこには神の箱が置かれていなかったことを示しています。“香柏の家” に居られたと言われる神は、その 「神性」 の一つである “神の心情” であり、“神の箱” の中にある十戒は 「神性」 にけるもう一つの “ロゴス” であるといえます。頭翼思想によると “神の心情” と “ロゴス” は神の本質である 「愛」 そのものであり、切り離せるものではありません。神殿とはそのうような “愛の神” が住まわれるところでなければなりません。つまり、“常に神と喜怒哀楽を共にし、神のみ言葉に従って生活する場” が神殿といえるのです(統一思想要綱 52p〜67p)。 また、神のみ言葉を不信するイスラエルの民は、イスラエル選民として歩み始めてからモーセに至り、さらにダビデの時まで、神との関係は “神の僕” の立場といえるのです。“僕” には主人としての神の家を建てることはできませんでした。(詳細は避けますが、前ページの内容における)養子の位置を復帰した立場で誕生したソロモンが、神殿を建てることができたのです。 A ダビデの子ソロモンの復帰摂理上の立場
神は、サタン圏からヤコブがイスラエルとして天使に勝利したことによって、神側にイスラエル選民として復帰することができましたが、エジプトの安堵した暮らしに、復帰節理の途上にある神の心情から離れて行く中で迫害が次第に激しくなり、神の選民であることの自覚を取り戻して、モーセのような神による指導者の出現を待ち望んだのです。しかし、エジプトを出立したイスラエル選民は、そのようにして立ち上がったモーセにも従順に従えず、自分たちの思いに頑なで、神から授かった十戒のみ言葉に素直に従わなかったことを痛感していたモーセの言葉が率直に表現しています(イスラエル12支族。この時のイスラエルの神との関係は、神の心情を理解できない “僕” の立場と言えるでしょう。神の心情を理解できず、十戒のみ言葉を幕屋で触れる以外は蚊帳の外でした。 しかし、ダビデはそのイスラエルから受け継いだ自らの心を、断食をもって神の前に悔い改め改めて、バテシバをその立場で迎え入れてソロモンが生まれました。ソロモンは、これまでイスラエルがみ言葉に背いて配信してきた罪を悔い改めたことで誕生したのです(統一王国時代 (上))。ソロモンは、神にとって初めての “養子の立場” に立って誕生した神の子と言える立場だったのです。 神の養子として生まれたからこそ神と同じ家に住むことができるのであり、息子として親と同居するために家を建てることができるのです。神殿の周辺にはソロモンの宮殿もあり、それらも含めてソロモン神殿と呼ばれています。 B 神殿摂理の持つ意味と「食口」という概念
統一教会では、よく 「食口」 という言葉を使っていました。「食口」 とは韓国語で、“同じ釜のご飯を食べる” という意味で、統一教会では “兄弟姉妹” や “家族” という意味とされていましたが、単にその範疇のみの概念でしかなかったのでしょうか。 実は、この概念に対する本質的な不足こそが、当時のイスラエル選民にもっとも不足していた概念であり、ソロモンを堕落に導いた要因の一つでもあります。さらに、キリスト教が腐敗した要因でもあり、ユダヤ教に異を唱えるイスラム教の重要視する観点の一つであることは間違いありません。 つまり、これは 「文鮮明先生自叙伝」 にある、単に幼少期のころの出来事の一つではなく、「平和」 を論じる上での重要な概念なのです。
それは、神様のみ言葉を受け入れ、それによる “心の発露” に従って “自らの様々な垣根を越えて愛そうとする心” を持った人たちが、神様を父母とする兄弟姉妹としての “堅い心の絆に結ばれた 「神の子」 として関係” であり、その様な関係だからこそ、いざこざや争いが起こったとき、“自らを犠牲にしてでも和解させようと、「平和」 に向けた行動を起こすことのできる人たち” を 「食口」 と呼んだのです。 <参照> ・ 「食口」とは何ですか? 2. ソロモンの神殿建設 (1) ソロモン王朝の繁栄と滅亡 完全版 図説 聖書の世界 (学研出版サイト) 天地創造からイエスの生涯、世界の終わりといった旧・新約聖書の「正典」に記された有名な物語を豊富な図版と併せて紹介。それだけでなく、「正典」から外された“もうひとつの聖書物語”も併載する『聖書』の完全版ダイジェストである。 【 月本昭男(監修)】 1948年、長野県生まれ。1971年、東京大学文学部卒業。日本のアッシリア学者、聖書学者、宗教学者。上智大学神学部神学科特任教授。立教大学文学部キリスト教学科名誉教授。『ギルガメシュ叙事詩』(岩波書店)など、多くの著作や論文がある。 @ ソロモン神殿建設とツロの王ヒラム a) ソロモン神殿 ソロモン神殿の建設が始まったのは、イスラエルがエジプトを出立してから480年が経ち、ソロモンが王となって第四年目の二月。完成したのは第十一年目の八月で、七年を要しました。長さが60キュビト (約24m)、幅20キュビト (約8m)、高さ30キュビト (約12m) で、土台は石造りですが、天井や壁、床などはすべて香柏 (レバノンスギ) 材と糸杉材で、外壁となる石が全く見えに程に張り巡らされ、本殿となる至聖所はさらにこれを純金で覆っていました。(列王紀上6章) <図の神殿図は、ウィキペディアに掲載されているもので、エゼキエルの予言にある再建案を元に19世紀に図案化されたものです。(エゼキエル書40章〜43章)> <参照> ・ エゼキエルの神殿 ソロモンは、青銅の細工人ヒラム (ツロの王とは別人) をツロから呼んで二本の柱 (右図) を神殿の廊に立てさせました。南の柱をヤキン (神殿に向かって左)、北の柱をボアズ (神殿に向かって右) と名づけ、柱頭には市松模様の網細工が、その上に “ざくろ” が、さらに “ゆりの花” が細工してありました。(列王紀上7章13節〜23節) このヤキンとボアズですが、ヤキンは 「善悪知るの木」 を、ボアズは 「生命の木」 を象徴していたのです。また、古来より “ざくろ” と “ゆり” はどちらも女性の生殖器を象徴していました。 また、日本の神社は鳥居や拝殿と本殿が、神殿の青銅の柱や聖所と至聖所と似ているだけでなく、鳥居が青銅の柱にある “ざくろ” や “ゆりの花” のように赤や白の鳥居があります。 <参照> ・ 検証:聖書アラビア起源説 その15 ヤキンとボアズ そしてザクロ ・ 1列王記6−8章 「主の家を建てる」 ・ 幕屋と エルサレム神殿の変遷 ・ ソロモンの柱頭 (紀元前11世紀)) ・ 日本は恵みの契約の国である ・ Pomegranate(ザクロ)〔Gr.rJoav)〕 ・ Lily(ユリ) ・ 鳥居の意味や由来!赤白など色の違いの理由や種類はどれくらいあるの? b) レバノン杉とヒラム
ヒラムは、港湾都市ティルス (現レバノン) の王 (在位:紀元前969年〜936年) で、ダビデ王の王宮建造にあたっては古代から有名だったレバノン杉や木工 ・ 石工の職人を派遣しました。ソロモンがエルサレム神殿建築を行ったときも、ヒラムはソロモンの要請にこたえて大量のレバノン杉と糸杉を供給しています。 このヒラムは、海洋交易が盛んになると (エゼキエル書28章)、堕落前の天使長ルーシェルのような存在となって、ソロモン王に多大な影響を及ぼしたのです。 ところで、レバノン杉 (右上図) と糸杉 (右下図) ですが、レバノン杉はマツの仲間の針葉樹で、材質はたいへん硬く、かつ腐りにくく、芳しい香りを放つことから香柏と呼ばれI呼ばれ (第二節 イスラエル12支族)、糸杉はヒノキ科イトスギ属で、世界中に生息しています。腐敗しにくいため、建築材、彫刻、棺などに幅広く使用されてきました。 A ソロモン王の堕落と王国の滅亡 ソロモンの治世においては、ユーフラテス川からペリシテ人の地、さらにエジプトとの国境に至るまでが支配下にありました。 国内の制度も整備され、ソロモンは官僚制を確立し、王国を十二の行政区に分け、十二名の知事を配置しました。さらに、大規模な土木工事を行い、国内各地の都市を強化したのです。そして、父ダビデの遺志を継ぎ、神を祀って契約の箱を安置するため、エルサレムの「ダビデの町」の北方の丘に神殿を建てたのです。 神殿の建設に際しては、ツロ (ティルス=現レバノン) の王ヒラムから香柏やいとすぎなどの木材と建築技術が提供され、代わりに国内からは、小麦、オリーブ油などを輸出しました。さらに西アジアの陸橋に位置する地の利を生かし、シリアからパレスチナ沿岸沿いにエジプトに向かう 「海の道」 や、ヨルダン東岸を南北に走る 「王の道」 を支配して莫大な富を得たのです。 だが、こうした繁栄の陰には、重税や強制労働に苦しむ民の不満もありました (左図)。加えて彼は、エジプトの王ファラオの娘をお王妃として、諸外国から多数の妻を迎えたのです。妻は七百人、側妻も三百人いたといわれ、彼女たちのために異教の神殿が建設されました。 これらの神を裏切る行為は、イスラエルの民の批判を招くと共に、民の犠牲の上に築かれた平和は、やがて破綻をきたし、ソロモンの死後程なくして、王国は南北二つに分裂してしまうのです。 <参照> ・ ソロモンの神殿 ・ 検証: 聖書アラビア起源説 その14 ソロモンの謎の相棒ヒラム 3. 神殿崩壊と再建 (1) 第二神殿とヘロデ神殿 @ 第二神殿 BC587年、南ユダ王国がバビロニアに滅ぼされると、王や有力者たちは家族・使用人共々捕囚として連れ去られました (バビロン捕囚)。その後、神殿は略奪され、火が放たれエルサレムは陥落しました。 BC539年、新興国ペルシアの王キュロスは、バビロニアの首都バビロンを征服すると、勅令を発し、ユダヤ人のエルサレムへの帰還と神殿の再建を許可しました。さらに、戦利品の神殿祭具を返還し、神殿再建のための財政援助も約束したのです。 王キュロスの命令で、ダビデ家出身の首長シェシュバツァルが神殿祭具を託され、第一陣としてエルサレムに帰還します。神殿の基礎工事は、シェアルティエルの子ゼルバベルと、ヨツァダクが指揮しました。 ところが、サマリアの人々からの共同建設の申し出を断ったために、彼らから建設の妨害を受け、神殿の再建は約20年にわたって中断されましたが、BC515年、ダレイオス王治世6年に神殿は完成しました。 A ヘロデ神殿 ヘロデ王はマサダ、カエサレアおよびティベリアに荘厳な宮殿を有していました。彼は非ユダヤ人の民衆に貢献するために様々な異教徒の神のための神殿を建設し、その資金は地元のユダヤ人に重税を課すことでまかなわれました。 エルサレム神殿がヘロデ王によって再建されたのは紀元前1世紀のことで、宗教的な崇拝と神殿での儀式は神殿の再建が行われる中、続けられました。ゼルバベルによって建設された古い神殿は神殿の丘の大規模な拡張から始まり、華麗な建築物に取り換えられました。 しかし、ユダヤ属州の大規模な反乱 (ユダヤ戦争) の後、70年のエルサレム攻囲戦においてティトゥス率いるローマ軍団によって、エルサレム神殿に火を放たれて炎上し、エルサレムは陥落したのです。 <参照> ・ 資料:エルサレム神殿とエルサレム ・ ゼルバベルの神殿
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