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黒田裕樹の歴史講座「朝鮮出兵」

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 皆さんは、豊臣秀吉という名前を聞いた際に、まず何を思い浮かべますか?

 普通の日本人ならば「天下統一を成し遂げた偉い人」「低い身分から関白にまで出世した凄い人」あるいは「大坂城(現在の大阪城)を築いた人」など、概ね良い評価をされることが多いと思います。

 特に私が住む大阪では、秀吉は「豊国大明神」として神様の扱いを受けており、また、関白の経験者という意味の「太閤さん」として、21世紀の今でも高い人気を誇っています。

 しかし、一人の人物に対する評価というものは、国が違えば意見も分かれることがよくあります。なかでも秀吉の場合は、ある国では「冷酷無比な侵略者」として、現在でも悪魔のように嫌われているのです。

 それはどこの国かといえば、朝鮮半島にある北朝鮮と韓国です。なぜ秀吉は、朝鮮半島においてそれほどまでに嫌われているのでしょうか?


  
  

 豊臣秀吉による歴史的事実には、天下統一という偉業のほかに、避けて通れない対外政策があります。それは、1592年の文禄の役と、1597年の慶長の役という、二度にわたる朝鮮半島への出兵です。

 秀吉による朝鮮出兵が結果的に失敗に終わったことで、朝鮮半島の国土や人々の生活が荒廃したのみならず、莫大な資金や兵力を費やした豊臣家の支配にも多大な影響をもたらし、後に徳川家によって滅ぼされる原因の一つとなりました。

 秀吉の出兵によって大きな被害を受けた朝鮮半島の人々の恨みは深く、文禄の役は壬辰倭乱(イムジンウェラン)、慶長の役は丁酉倭乱(チョンユウェラン)と呼ばれるなど、朝鮮半島において秀吉は21世紀の現在でも嫌われ続けているのです。

 一方、秀吉の行為は我が国においても「理解不能な最大の愚行」「晩年の秀吉が正常な感覚を失ったことによる妄想」などと散々な扱いを受けており、我が国の歴史教科書においても「朝鮮侵略」と書かれるなど、秀吉による出兵が朝鮮半島への侵略行為とみなされているのが現実です。

 しかし、秀吉による朝鮮出兵を、そのような一方的な視野で断罪するだけで終わらせて本当に良いのでしょうか?

 今回の講座では、秀吉が朝鮮出兵を決意した「本当の理由」を探るとともに、朝鮮出兵がなぜこのような一方的な扱いを受けるに至ったのかという謎についても解明していきたいと思います。


  
  

 秀吉による朝鮮出兵を理解しようとすれば、決して無視することのできない一つの「大きな流れ」があるのですが、それはいったい何なのかを皆さんはご存知でしょうか?

 私の講座を含めて、日本史を学習しようとする際には、我が国の出来事にこだわり過ぎることによって、ついつい忘れがちになってしまうものがあります。

 答えは「世界史の流れ」です。日本史なのになぜ世界史が出てくるのか、と思う人々も多いかもしれませんが、日本史を理解しようと思えば、世界史の流れも同時に理解しなければ、その実像が見えてこないことがあるのです。

 例えば、聖徳太子による遣隋使にしても、当時の中国大陸が隋によって約300年ぶりに統一されたことで、我が国を含む東アジアの諸国に緊張が走っていたこと、また隋と朝鮮半島の高句麗とが戦争中であり、隋が我が国に攻め込む余裕がなかったという現実があったからこそ、聖徳太子が小野妹子を通じて対等外交を目指した国書を隋の煬帝に送りつけたことの真意が理解できるのです。

 ところで15世紀の末から秀吉が天下を統一した16世紀末頃の欧州(ヨーロッパのこと)は、一般には大航海時代呼ばれています。

 名前だけを見れば、大海原に新たな希望を見つけようとした開拓の時代という良い印象を受けるのですが、実はこの時代には、多くの人々が虐殺されたという恐るべき側面が隠されているのです。


  
  

 大航海時代には、きっかけの一つとなった大きな出来事がありました。それはルターによるキリスト教の宗教改革です。

 「神の救いはローマ教皇にあるのではなく、個々の信仰、すなわち聖書の中にこそある」としたルターの考えは、プロテスタントという名の新教として受けいれられ、旧教と呼ばれた従来の教えであるカトリックとの間で、血で血を洗う宗教戦争が起こりました。

 巻き返しを図りたいカトリックは、1534年にイエズス会を創設し、欧州以外の各地での布教を目指しましたが、この動きに合わせるかのように、大航海時代の名前どおりに世界中を航海して、各地の大陸の征服を実現しつつある国々がありました。それはスペインポルトガルです。

 イエズス会創設より前の1494年、スペインとポルトガルによって大西洋を東西に分ける一本の線が引かれ、この線から東側で発見されるものはすべてポルトガルに、西側で発見されるものはすべてスペインに属するという取り決めが、ローマ教皇の承認によって両国のあいだで結ばれました。これをトルデシリャス条約といいます。

 まるで地球を饅頭を二つに割るかのように分割するというとんでもない発想ですが、これは当時の白人至上主義による人種差別に基づく当然の思想でもありました。そして、この恐るべき考えは、スペインとポルトガルの両国によって、着実に行われていったのです。


  
  

 かつての地球には、現在の南米大陸西側にはインカ帝国、メキシコ中央部にはアステカ帝国という二つの国が栄えていました。しかし、両国はいずれも16世紀にスペインによって滅ぼされ、国民の生命や財産、さらに文化は永遠に失われてしまいました。また、アフリカ大陸も欧州による征服を受けて、多数の現地人が奴隷として売買されるなど、欧州による有色人種の国や人々の支配は留まるところを知りませんでした。

 こうした中で創設されたイエズス会による「神の名の下に」布教活動を世界中で行うという目的は、21世紀の現代における常識では考えにくいことではありますが、当時の結果として大航海時代における欧州との利害にからむこととなり、カトリックの布教と白色人種による世界各地の侵略とが、あたかもワンセットのようにして進んでいくことになりました。

 例えば、現地の国民にカトリックを信仰させることに成功して、国民がこぞって「神の信者」となった後に、欧州の国々が「神の名の下に」侵略戦争を仕掛ければ、信者と化した国民はどちらの味方をするでしょうか?

 こうして世界各地の支配を拡大していった欧州各国のうち、スペインの当時の国王であったフェリペ2世は、やがてアメリカ大陸を支配したのみならず、1580年にはポルトガルの王位も兼任するなど、まさに絶頂期にありました。

 そんなフェリペ2世が次に支配を狙った地域こそが、我が国を含むアジアの国々だったのです。


  
  

 イエズス会の宣教師であるフランシスコ=ザビエルが1549年に我が国でカトリックの布教を始めた頃は、当時の戦国大名は欧州による白人支配の野望に気づくこともなく、南蛮貿易によって欧州渡来の珍しい財宝を手に入れるために、支配地でのカトリックの布教を許可するとともに、大名自らがカトリックを信仰する者も現れました。彼らのことを「キリシタン大名」といいます。

 天下統一を目指した織田信長も同じ理由で支配地におけるカトリックの布教を許可し、信長の後を継いだ秀吉も、当初はカトリックの布教を認めていたのですが、そんな彼がやがてカトリックに潜むスペインによる世界侵略の野望に気づく日がやって来たのでした。

 1587年、九州平定に乗り込んだ秀吉を、イエズス会の宣教師が当時の我が国に存在しない最新鋭の軍艦を準備して出迎えました。その壮大さに驚いた秀吉は、イエズス会による布教活動にはスペインによる我が国への侵略が秘められているのではないかと疑念を持ち始めました。

 そして、現地を視察した秀吉を待ち受けていた「3つの信じられない出来事」を目にすることで、秀吉の疑念は確信へと変化していったのです。


  
  

 九州にある長崎は、外国への玄関口として栄えた港町ですが、戦国時代にはキリシタン大名であった大村純忠が支配していました。純忠は、カトリックを深く信仰するあまり、長崎の地をイエズス会に寄進していたのです。

 我が国古来の領地を、信仰のためとはいえ外国の所有に任せるという行為は、天下統一を目指した秀吉にとっては有り得ないことであり、またスペインやイエズス会の領土的野心に恐怖を感じました。

 次に秀吉を待ち受けていたのは、キリシタン大名の領内において、無数の神社や寺が焼かれているという現実でした。カトリックの由来であるキリスト教は、そもそもキリストのみを神とする一神教であり、それ以外の信仰となる対象を一切許さなかったために起きた悲劇でもありました。こうした行為は、秀吉の目からは「我が国の伝統や文化を破壊する許せない行動」としか映りませんでした。

 さらに秀吉を驚かせたのは、ポルトガルの商人が多数の日本人を奴隷として強制的に連行していた事実でした。白人からすれば、支配地の有色人種を奴隷扱いするのは当然の行為であっても、天下統一を目指すとともに、国民の生命や財産を守る義務があると自覚していた秀吉にとっては絶対に認められない行為でした。

 イエズス会とスペインとによる我が国侵略の野望に気づいた秀吉は、これらの事実に激怒するとともに、直ちにカトリックの信仰を禁止し、長崎もイエズス会から没収して秀吉の直轄地としたのでした。


  
  

 さて、秀吉が気づいたスペインによる我が国侵略の野望ですが、実際にスペインやイエズス会はどう動いたのでしょうか。実は、当初のスペインは我が国を直ちに征服することは不可能と考えていました。なぜなら、我が国は戦国時代の真っ最中であり、数十万の精強な軍隊のほかに、10万挺を超えるという世界に例のない多数の鉄砲を所有していたからです。

 しかし、我が国の侵略をあきらめなかったスペインは、我が国以外にアジアで広大な領土を持つ中国の明に注目しました。現代でもそうですが、人口が多く、資源も豊富にある明は、スペインにとっては魅力的な領地の候補でもありました。

 ただ、明を攻めようにも、多数のスペインの軍隊を遠い明まで運ぶことは物理的には不可能な話ですが、彼らには我が国での布教に成功したキリシタン大名による兵力がありました。彼らを使って明を征服し、そこを拠点にして我が国を攻めることができれば、困難な征服も可能になると考えたのです。

 こうしたスペインの動きをつかんでいた秀吉には、危機感と焦燥感がありました。もし明がスペインに征服されてしまえば、次は我が国が狙われるのは明らかだったからです。その構図は、まさに鎌倉時代に起きた元寇そのものでもありました。


  
  

 ところで、当時のスペインは中国大陸へ直接攻め込めるだけの大きな軍艦を持っていましたが、先述のとおり兵力が不足していました。一方の我が国は、兵力こそは充実していましたが、外航用の大きな船を建造するだけの能力が当時はありませんでした。

 これらの点に目をつけた秀吉は、まずはスペインとの外交による妥協を目指しました。つまり、スペインと我が国とが同盟を結ぶことによって、両国が共同して明を征服し、戦後は明国内でのカトリックの布教を許す代わりに、スペイン所有の外航用の軍艦を売却してもらうという条件を示したのです。

 しかし、秀吉の提案はスペインによって拒否されました。スペインは武力による我が国の征服を断念していなかったからです。

 スペインとの同盟に失敗した秀吉は、明がスペインに征服されるのを黙って見ているよりも、機先を制して自分が明を征服してしまう以外に、我が国をスペインによる侵略から救う道はないと覚悟を決めました。全国を統一した彼の兵力は、全体で数十万人にまで膨れ上がっており、これらの精鋭を投入すれば、我が国単独での中国大陸の征服も不可能ではないと考えたからです。

 そして、こうした秀吉の決断は、天下が統一されたことで力を持て余していた兵士たちにとっても、新たな領土を手に入れる可能性が出てきたことで好意的に迎えられました。秀吉の決断は、古代マケドニアのアレクサンドロス大王や、モンゴルの英雄チンギス=ハーンと同様に、巨大な兵力を持つ人間が当然のように行う遠征でもあったのです。


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 明の征服を決断した秀吉は、自らの行為を「唐入り」と名付けました。しかし、先述したように、我が国は明へ直接攻め込むことが可能な大きな船の建造能力が当時はありませんでした。だとすれば、我が国と地理的に近い朝鮮半島を経由して攻め込む以外に方法がありません。

 秀吉は当時の朝鮮半島を支配していた李氏朝鮮に対して「我が国が明へ軍隊を送るから協力してほしい」と使者を出しましたが、立場上は明を宗主国と仰いでいた李氏朝鮮には出来ない相談でした。

 進退きわまった秀吉は、明を征服する前提として、やむなく朝鮮半島から攻め込んでいったのです。これこそが、1592年に起きた一回目の朝鮮出兵である文禄の役の本当の理由でした。

 当初は我が国が圧倒した戦いでしたが、李氏朝鮮の名将である李舜臣(イ・スンシン)の活躍があったり、縦に伸びきった我が国の軍勢の補給路が断たれたことで、多くの兵が飢えや寒さに苦しんだりするなど、戦いは膠着した状態になり、やがて休戦となりました。

 その後、我が国と李氏朝鮮や明との間で和平交渉が行われましたが、失敗に終わったことで、1597年に秀吉は再び朝鮮半島を攻めました。これが慶長の役です。戦いは一進一退を繰り返しましたが、1598年に秀吉が亡くなったことで休戦となり、我が国は朝鮮半島から撤退(てったい)しました。

 こうした二度にわたる朝鮮出兵は、秀吉の悲願であった当初の「唐入り」の目的を果たせなかったばかりか、朝鮮半島へ多大な影響を及ぼしただけでなく、我が国にも豊臣家を始めとして多数の損害をもたらした結果となってしまいました。さらに、この「失敗」が戦後の人々の間に「ある空気」をもたらすことになったのです。


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 さて、ここで皆さんにお聞きしたいのですが、皆さんがある会社の社員だったとしましょう。その会社の社長はカリスマ的な存在であり、神がかりな成功を次々と続けた後に、ついには一代でその会社を超一流の企業へと拡大させることに成功しました。そして、その社長が新たに社運を賭(か)けた大きなプロジェクトを発表したとしましょう。

 このプロジェクトに対して、皆さんはどう思われますか?

 それまでやる事なす事が当たり続けた社長の言うことであり、またそれだけの信頼や実績もあります。だとすれば、勝ち馬に乗らんとするばかりに皆がこぞってプロジェクトに参加しようとしますよね。中にはプロジェクトの重要な役目を自ら志願する社員もいるでしょう。

 しかし、結果としてそのプロジェクトは大失敗に終わって社長は急死し、社運も一気に傾くことになってしまいました。幸いにも別の企業の社長が再生に乗り出したことで会社そのものはなんとか存続しましたが、こうなると、それまでプロジェクトに賛成していた人々はどう考えるでしょうか。

 もし自分がプロジェクトに積極的だったことが世間に知られては、とんだ赤っ恥をかくことになりますし、また新たな社長ににらまれて会社を辞めさせられるかもしれません。だとすれば「俺はあの時は本当は反対だったんだ。でも社長が強引だったから嫌々従うしかなかったんだ」とか、あるいは「俺はあの時反対したんだ。だから(本当は実力不足で参加できなかったんだけど)プロジェクトにも参加しなかったんだ」などと自分を少しでも良く見せようは思いませんか?

 実はこれと同じことが、秀吉が死んだ後にも行われていたのです。


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 秀吉の朝鮮出兵後に我が国を支配した徳川家康は、それまでの秀吉の政策の多くを引き継ぐ一方で、政策の一部を否定することで自分の実力を示そうとしました。

 特に豊臣家が滅ぼされた後は、秀吉のことを賞賛する内容を口にしたり、文章を残したりするだけで取り潰される可能性がありましたから、各国の大名は、かつては秀吉の朝鮮出兵に賛成していたという事実を徹底して隠すようになりした。

 また、秀吉の出兵によって悪化していた李氏朝鮮との関係修復を目指して家康が交渉した際にも、自分が朝鮮半島に攻め込まなかったという事実や、豊臣家を倒して自身が新たな我が国の支配者となったことを強調することで、国交の回復に成功しました。

 このうち、家康が朝鮮半島を攻めなかったのは事実ですが、これは逆に「攻めさせてもらえなかった」という説もあります。なぜなら、秀吉は明の征服に成功すると確信しており、宿敵である家康に領地の拡大を認めるような戦闘行為をさせたくなかったからだという見方があるからです。

 いずれにせよ、家康が最終的に我が国の支配者となったことで、秀吉による朝鮮出兵はその意義をすべて否定されるだけでなく、「無益な戦い」「晩年の愚行」という歪んだレンズを通した見方しかされなくなっていきました。そして、その見方が現代にも続くきっかけとなった「ある事実」が20世紀に起きているのです。


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 今年(平成22年、西暦2010年)は、ある歴史的事実から100周年を迎えます。それは、明治43(1910)年に我が国が当時の朝鮮半島を支配していた大韓帝国を併合したとする、いわゆる日韓併合のことです。

 我が国が韓国を併合するに至った道のりについては別の機会で詳しく紹介する予定ですが、間違いなくいえることは、日韓併合という事実によって、第二次世界大戦後に朝鮮半島が独立した後も、我々日本人の多くが朝鮮半島の人々に対して、ある程度の「負い目」を感じていることです。

 そして、その負い目からなのか、我が国は北朝鮮や韓国による歴史認識に対して他国と比べて強い態度に出ることがなく、その結果として秀吉による朝鮮出兵を、北朝鮮や韓国が主張するままに「朝鮮侵略」と表現し、我が国の歴史教科書にも採用されていることが多くなっています。

 しかし、我々日本人の朝鮮半島の人々への個人的な感情はともかくとして、秀吉の行為そのものが、果たして本当に「朝鮮侵略」だったといえるのでしょうか?


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 先述したとおり、秀吉にとっての最終目標は明を征服すること、すなわち「唐入り」にありました。秀吉が朝鮮半島へ攻め込んだのは、李氏朝鮮が我が国の方針に反対したからであり、可能性の有無はともかくとして、仮に李氏朝鮮が賛成していれば、秀吉から攻められることはなかったでしょう。

 だとすれば、秀吉は明を「侵略」する意思はあったとしても、朝鮮半島そのものを侵略するという概念はなかったといえます。それなのに、秀吉の行為を「朝鮮侵略」と断言することは、秀吉の真意を見誤るだけではなく、歴史的にも正しい表現とはいえません。従って、ここはやはり「朝鮮出兵」と表現すべきなのです。

 もちろん、現代にもつながる朝鮮半島の人々の秀吉に対する恨みや憎しみは理解しなければなりませんが、その一方で世界史には共通の原則があるのも事実です。それは「ある民族にとっての英雄は、他民族にとっての虐殺者(=戦争勝利者)である」ということです。

 秀吉は、朝鮮半島の人々から見れば確かに許されざる侵略者ではありますが、その一方で、我が国にとっては天下統一を果たした英雄であり、戦国の乱世が続いた世の中に平和をもたらすきっかけをつくってくれた恩人でもあります。

 また、先述したアレクサンドロス大王やチンギス=ハーンも英雄としての顔を持つ一方で、彼らによって虐殺され、滅ぼされた民族も大勢います。こうした現実を考えれば、我が国に関わらず、違う国同士で共通した歴史認識を持つという理想は、結局のところは不可能といえるのかもしれません。


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 しかし、だからといって他国の歴史認識を一方的に間違いと決め付けることは決して許されません。その国にはその国で語り継ぐべき歴史があるからです。 ということは、逆にいえば我が国が他国に対してある意味へりくだってまで、他国の歴史認識に合わせる必要もないということになります。

 なぜなら、そうしたへりくだった行為は秀吉の朝鮮出兵に秘められた真意を始めとする、我々の祖先が代々バトンをつなぐようにして続けてきた、我が国の独立を守るための血のにじむような努力の一切が無駄であると断言するに等しいからです。

 今回の秀吉による「朝鮮出兵」に限らず、我々は日本人なのですから、他国の感情には理解を示しつつも、我が国の立場で堂々と歴史認識を持てばよいのです。

 また、我が国には様々な事情で永住権を持った外国籍の人々が暮らしており、彼らの子供たちが我が国の学校で学んでいる機会も多いですが、我が国の公教育である以上は、一定の配慮は必要だとしても、他国に遠慮する必要はないでしょう。 他国籍の人間に対する差別はあってはいけませんが、それと我が国による歴史認識とは別問題であり、区別することは決して間違ってはいないからです。

 ところで、秀吉による朝鮮出兵は失敗に終わりましたが、だとすれば待っていましたとばかりにスペインが我が国との戦いで体力の弱った明を攻め込みそうなものですよね。しかし、現実にはスペインが明を侵略することはありませんでした。なぜだと思いますか?

 それは、秀吉が死亡した頃までに、スペインの勢力が衰えを見せ始めていたからなのです。


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 秀吉が死亡した1598年にさかのぼること10年前の1588年、スペインの無敵艦隊がイギリスとのアルマダの海戦で敗北しました。 この戦いは、スペインとイギリスとの勢力が逆転するきっかけとなり、これ以降のスペインは、東洋に軍事力を割く余裕がなくなってしまったのです。

 もしスペインがアルマダの海戦に勝利していれば、明の征服も成功していたかもしれません。 そうなれば我が国の運命がどうなったのか見当もつきませんが、間違いなく断言できることは、アルマダの海戦の結果が、遠く我が国にも大きな影響を及ぼしたということです。

 また、明は秀吉の出兵から約半世紀後の1644年に満州(現在の中国東北部)の女真族のヌルハチによって滅ぼされ、新たに清が誕生するわけですが、清が建国できた原因の一つに、明が我が国と戦ったことで勢力が低下していたという事情があったことは間違いありません。

 これらの事実を知れば知るほど、世界の歴史にも大きな流れがあり、それが我が国における歴史にすべてつながっていることがよく理解できますね。 「太閤殿下の夢」を賭けた秀吉による朝鮮への出兵も界史のレベルから見るべきだと私は思います。


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