復帰摂理歴史の真実
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 l. 広島・長崎の原爆投下と復帰節理の問題点


 @ 原爆投下の真相
<参照>
 長崎の秘密」   平和教育協会 デイビッド・J・ディオニシ (本サイト・PDF)
 日本の原爆秘密」   デイビッド・ディオニシ (本サイト・PDF)



 a. ) フリーメーソン「死の血盟団」による新世界秩序計画の魁となったマンハッタン計画
<参照>
 ・ 「フリーメーソンと文芸復興

    暗躍する秘密結社

 さて、「フリーメイソンと文芸復興」で述べた、神の存在を肯定する宗教批判する集団から否定する集団として、七つの目的のもとに「イルミナティ」が結成されると、さらに無神論主義としての「共産主義」が理論的に体系化され、その七つの目的の結論ともいうべき「世界政府の樹立」は、世界政府による独裁制である「新世界秩序(NWO)」によるピラミッド型の階級社会です。(右下図)


 それは、クーデター のような目に見える形ではなく、段階的に成し遂げられるものとされています。
 具体的には、国際連合を頂点とする国際通貨基金、世界銀行による金融的な支配、欧州連合などの地域統合を名目した国家主権の段階的な廃止、NAFTATPPなどの自由貿易体制を通じた人と資本の移動自由化による経済的な国境の廃止、または地球温暖化や世界金融危機など世界レベルの取り組みが不可欠であるという、いわゆる「グローバルな問題」を創り出し宣伝することによって国家の廃絶が必要であるという世論の形成を通じて行われるとされています。


<参照> (下記は、上記の「長崎の秘密」に記載された秘密結社に関するサイトです。「長崎の秘密」の内容を整理したPDFです。)
 ・ ビルダーバーグ倶楽部(「ビルダーバーグ会議」「秘密結社−ビルダーバーグ グループ」)
 ・ ボヘミアングローブ(「世界の要人たちの悪魔儀礼Bohemian Groveを暴く」「ボヘミアン・グローブでの悪魔崇拝。目撃者の証言が見られる動画。」)
 ・ スカル・アンド・ボーンズ(「スカル・アンド・ボーンズ」「スカル&ボーンズ」)


    マンハッタン計画

 マンハッタン計画とは、第二次世界大戦中、枢軸国の原子爆弾開発に焦ったアメリカ、イギリス、カナダが原子爆弾開発・製造のために、科学者、技術者を総動員した計画のことで、1942年10月、米大統領ルーズベルトはアメリカ国防研究委員会 (NDRC) 議長のヴァネヴァー・ブッシュと副大統領ヘンリー・A・ウォレスとのミーティングで、「核兵器開発プロジェクト」を承認したことで始まりました。
 このプロジェクトによる原子爆弾の標的は、当初ドイツでしたが、原爆が完成する前にドイツが降伏したので、原子爆弾は広島と長崎に投下されることになったのです。上図右が1945年8月6日に広島に投下されたウランを燃料とした「リトルボーイ」、上図左が8月9日に長崎に投下されたプルトニウムを燃料とした「ファットマン」である。

<参照>
 原子爆弾投下の理由〜広島・長崎〜
 「広島原爆」と「長崎原爆」の違い
 原子爆弾の作り方・マンハッタン計画に至る科学の歴史

 日本でも原子爆弾の製造計画はありました。しかし、日本の科学者たちは「原子爆弾の製造は極めて困難で、したがって米国でも製造は無理である」として早々に断念されたのです。  第二次世界大戦中に日本で行われた原子爆弾の開発計画には、「ニ号」と「F号」と呼ばれた二つの主たる原子力開発計画があり、仁科芳雄博士が理化学研究所でニ号計画に取り組み、荒勝文策が京都帝国大学でF号計画を指導しました。
 この日本の特殊原子兵器の製作関連施設は、朝鮮半島北部に位置する興南地域の山岳施設にありました。アメリカ軍がこの施設を発見した時には朝鮮戦争の最中で、1950年11月27日から12月13日にかけての凍結した長津湖の戦いで不名誉な敗北を喫しています。

<参照>
 北朝鮮の興南区域の電力・港湾・工場などの基盤が大日本帝国(日本チッソ)の手により日本統治時代に形成された。


 b. ) 長崎の原爆が証すこと

 当時の長崎が500年以上も日本のキリスト教の中心地でした。1945年8月9日、広島に投下されたウラニウム原爆よりも更に威力のあるプルトニウム原爆が長崎市を壊滅させた時に、7万人以上の人々の命が一瞬にして絶たれました。この核爆発に生き残った人々の多くは、放射能被爆により更なる苦痛や、疾病、そして死と直面することになったのです。
 長崎の町が1945年には日本のキリスト教の中心地であったと云う事実は、一般的に米国や西洋世界の殆どの人々に知られていませんでした。歴史家ウィリアム・クレイグは、「長崎は日本のカトリック教の中心であったし、御宿りの聖母マリアは極東最大のローマ・カトリックの大聖堂(左図は、破壊された浦上天主堂であった」と書いています。そこの地元教区民によって建てられた大聖堂は、基本的に、1549年に当地を訪れた聖フランシス・ザビエルの教えによって改宗した人達が始めた信仰の自由を求める証しでした。長崎に対する原爆投下の際にグランド・ゼロとして選ばれたのは、まさにこの大聖堂でした。
 原子爆弾は「血の血盟団」にとって、当時昭和天皇が神として認められなくなった空所をキリスト教が支配するのを防ぐために必要とされました。当時の長崎では、5万人程のキリスト教徒が住み、彼等の「世界制覇計画にとって紛れもない脅威となるであろうから全滅させるべきだ」と判断したのです。
 8月9日11時2分原爆「ファットマン」が爆発した時には、長崎の街の大半が一瞬にして壊滅し、推定73,884人が殺されたのです。犠牲者の中には、連合国軍捕虜日本のキリスト教徒や、奴隷化された1万人以上の朝鮮人たちがいました。長崎の収容所に抑留されていた戦争捕虜たちは、極悪状態の中で生き残ろうとしていたのに監視の日本兵らもろとも焼き殺されたのです。




 A フリーメーソンから軍産複合体へ、拝金主義の病めるアメリカ

 戦争は、世界的なサタン側の枢軸国家が先に始めました。サタン的エバ国家である日本が、韓国を中心として東洋を占領しました。大東亜共栄圏は、神様の理想を先取りして、その理想を実現しようとして現れたものです
 天照大神の女神、八百万の神、多神教国家が日本です。これに対して、英国は天の側のエバ国家です。そして、アメリカはエバの子女だということができます。アメリカは英国から独立したからです。彼らはいつも、ぴったりとついて回ります。ですから先生は、フォークランドを巡ってアルゼンチンと英国が戦うとき、アメリカと英国がいつまでもくっついていれば、世界は滅びると言いました。分かれなければならないのです。ですから、天の基準を中心として、将来、アダム国家として立たなければならなかったのです。
 アベルは堕落する前のアダムの立場です。それがアベルの目的です。アダムの前に復帰された国家が英国ならば、復帰された天使長がフランスです。
 これに対して、サタン世界のアダム国家がドイツであり、エバ国家が日本であり、天使長国家がイタリアでした。これら三国ずつ組んで、神様とサタンを中心としてそれぞれ四位基台を造成して、世界的に分裂し、衝突したのが第二次世界大戦です。その戦いは、天かを争う戦いでした。
 その結果、神側が勝利したので、サタン世界のすべてのものを神側に取り戻さなければならないのです。これに対してサタン側は、世界的な最高の舞台として国際共産主義の体制を構築してきました。(「神様の摂理から見た南北統一」 312p〜313p)

 アメリカが責任を果たせなかったのです。「この者、戦いは私がして、あなたは欲張るのか。この者、後退しなさい!」と言ったならば、共産党はその時なくなったのです。天の側の民主世界の青年たちが血を流して戦った目的は、神様の領土を広め、天の国の版図を広めて、天の人をたくさん探し求めるためだったのです。そのような神様のみ旨があって、そのみ業をさせたにもかかわらず、なぜ後退しますか。
 ドイツを分けてしまったのもアメリカが責任を取らなければならず。韓国をそのようにしてしまったのもアメリカが過ったのです。責任を果たすことができなければ誰が利益を得るといいましたか。(怨讐です)。怨讐が利益を得ます。第二次世界大戦で一番福を受けるべきアメリカが、責任を果たせないことによって、その福をすべて共産党がもっていったというのです。共産党がもっていったということ知らなければなりません。その次には、アメリカと英国の怨讐だったドイツと日本が、なぜ、福を受けたのか分かりますか。ドイツと日本がなぜ福を受けましたか。なぜ第二次世界大戦の後にこれだけ復興したのかというのです。敗戦国が復興するという、そのような原則は歴史にないのです。
 アメリカが責任を果たせなくて、怨讐たちが福を受けたのです。このようにして、今ヨーロッパからも後退、アジアからも後退……。神様が見るとき、このアメリカをどのように考えるでしょうか。アメリカは腐るばかりです。今滅びつつあります。責任を果たせなかったキリスト教徒が激しく打たれるのです。キリスト教が滅びるのです。キリスト教がアメリカを主導して、共産党に一寸の土地も与えず食い止めて、すべて押してしまうことができなかったので、そのようになっているのです。(「神様の摂理から見た南北統一」 318p〜319p)

<参照>
 米国はフリーメイソンが作った



 a. ) 朝鮮戦争と38度線朝鮮分断


 朝鮮戦争において、朝鮮を分断しようとする理由には、朝鮮に南北の局地紛争を起こさせて米国の軍事費を高く維持すること(下記、軍産複合体)、そしてもう一つの理由として、朝鮮でのキリスト教の影響を削減することでした。
 ディーン・アチソン(左図)はコネチカット州ミドルタウンで生まれました。父はイギリス生まれの牧師でアメリカに移住し、母はカナダ人でした。1912年イェール大学に入学すると、在学中は有名な秘密結社スクロール・アンド・キーに入会したのです。1915年に大学を卒業後、ハーバード大学ロースクールに進学すると、フェリックス・フランクフルター教授に師事し、フランクフルターによってワシントンでの仕事を紹介されます。1918年に大学院を修了後、アチソンは最高裁判事ルイス・ブランダイスの秘書を務めました。
 アチソンは民主党の支持者としてワシントンD.C.の法律事務所で働いていましたが、フランクリン・ルーズベルト政権下で1933年5月、財務次官に任命されました。しかし、その後には弁護士業に戻り、1941年には経済担当国務次官補に再度任命されると1945年8月まで同職を務め、1944年には戦後国際金融秩序を構想するブレトン・ウッズ会議に出席しています。日本の降伏が間近な頃、「天皇制は時代錯誤の危険な封建的制度である」と国務次官補アチソンは論じ、天皇制存続を認めた国務次官ジョセフ・グルーと議論しています。
 アチソンの政策は受動的な封じ込めであり、共産主義陣営に対して積極的に攻勢をとらなかったとして、ジョセフ・マッカーシーをはじめとする共和党の急進的メンバーによって攻撃されることとなった。アチソンは封じ込めと宥和を同等視するアメリカ人達から嘲笑の的となりました。1950年12月15日、下院共和党は満場一致で彼の罷免を可決しています。
 更にアチソンは朝鮮戦争におけるダグラス・マッカーサー将軍とハリー・S・トルーマン大統領の論争で大統領の側に付き、強硬派を狼狽させました。アチソンとトルーマンは戦争を朝鮮半島内に限定しようとしたが、マッカーサーは中華人民共和国への戦線拡大を要求し、大統領に罷免されたのです


 b. ) 軍産複合体

<参照>
 軍産複合体と闘うオバマ (「田中宇の国際ニュース解説」より)
 軍産複合体の正体 (「闇株新聞」より)
 軍需産業と軍産複合体   木村朗 (鹿児島大学教授、平和学専攻)



 軍産複合体とは、軍需産業を中心とした私企業と軍隊、および政府機関が形成する政治的・経済的・軍事的な勢力の連合体を指す概念のことです。
 軍産複合体を結成したのは英国で、米国は第二次大戦後、18世紀以来の覇権国だった英国から覇権を移譲されて単独覇権国になりました。米国は国連安保理の5カ国の常任理事会の体制に象徴されるように、自国の単独覇権体制でなく、米国と他の地域覇権国が対等に立ち並ぶ多極型の覇権体制を望んでいました。
 そこで英国は、表向き米国に覇権を移譲しつつ、英国の在米の代理人たちが米国の外交戦略を牛耳るように仕組むことで、引き続き自国が隠然とした覇権国であり続けようとしたのです。
 ところが世界が多極型になると、この英国の戦略が機能しなくなったため、英国勢は、米国の上層部(軍事産業や金融界)に「夢」の実現を持ちかけ、英チャーチル首相が米国を訪問して発した「鉄のカーテン演説」を皮切りに、米英とソ連や中国が恒久的に対立する有事体制としての「冷戦」を開始させたのです。ソ連や中国の脅威は常に誇張され、脅威の誇張を指摘する者をアカ呼ばわりする体制が作られたのです。


 c. ) 復帰節理の問題点と日本の立場

<参照>
 マッカーサーを親日に変えた昭和天皇とのエピソードがカッコ良すぎる!
 「昭和天皇を処刑するのはキリストを十字架にかけるのと同じ」マッカーサー。



 日本政府が1945年8月10日午前2時半に、「国体護持」を条件にポツダム宣言受諾を決定し、再度御前会議が開かれ、8月14日正午前に天皇の無条件降伏受諾の決断をふたたび仰いで最終的に決定しました。翌15日に天皇が降伏の詔書を放送を通じて国民に発表したのです。9月2日に降伏文書に調印し、正式に第二次世界大戦が終結しました。
 8月30日、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)のダグラス・マッカーサーが日本に進駐しました。マッカーサーは第一生命ビル(千代田区有楽町1-3-1)にGHQ総司令部を設け、皇居を見下ろす6階の執務室で、日本の占領政策に着手したのです。
 9月27日、昭和天皇はアメリカ大使館公邸を訪れ、マッカーサーに会い語った内容が伝えられています。
 「私は、日本の戦争遂行に伴ういかなることにも、また事件にも全責任をとります。また私は日本の名においてなされたすべての軍事指揮官、軍人および政治家の行為に対しても直接に責任を負います。自分自身の運命について貴下の判断が如何様のものであろうとも、それは自分には問題ではない。構わずに総ての事を進めていただきたい。私は全責任を負います。」
 この言葉に、マッカーサーは驚きました。彼は、昭和天皇が命乞いしてくるのだろうと考えていたのです。マッカーサーはこの時の感動を、『回想記』にこう記しています。
 「私は大きい感動にゆすぶられた。死をともなうほどの責任、それも私の知り尽くしている諸事実に照らして、明らかに、天皇に帰すべきではない責任までも引受けようとされた。この勇気に満ちた態度に、私の骨の髄までもゆり動かされた。私はその瞬間、私の眼前にいる天皇が、個人の資格においても日本における最高の紳士である、と思った。」
 また、この時マッカーサーは、次のように返答したといいます。
 「かつて、戦い敗れた国の元首で、このような言葉を述べられたことは、世界の歴史にも前例のないことと思う。私は陛下に感謝申したい。占領軍の進駐が事なく終ったのも、日本軍の復員が順調に進行しているのも、これ総て陛下のお力添えである。これからの占領政策の遂行にも、陛下のお力を乞わねばならぬことは多い。どうか、よろしくお願い致したい。」(藤田侍従長による『侍従長の回想』)
 マッカーサーは、立ち上がって昭和天皇の前へ進み、抱きつかんばかりに天皇の手を握りしめて、「私は、初めて神の如き帝王を見た」と述べました。
 わずか37分間の会見で、マッカーサーの昭和天皇に対する態度は、まったく変わっていました。会見後、マッカーサーは予定を変更して、自ら昭和天皇を玄関まで見送ったのです。
 当時、ソ連やアメリカ本国は「天皇を処刑すべきだ」と主張していましたが、昭和天皇の態度に感動したマッカーサーは、「天皇を(処刑して)殺すことは、イエス・キリストを十字架にかけることと同じだ」といってこれらの意見を退け、自ら天皇助命の先頭に立ったのです。
 敗戦直後、廃墟と化した街で、人々は飢えに苦しんでいました。昭和天皇は松村謙三農林大臣(当時)に、「多数の餓死者を出すようなことはどうしても自分にはたえがたい」と述べられました。そして、皇室の御物の目録を農林大臣に渡され、「これを代償としてアメリカに渡し、食糧にかえて国民の飢餓を一日でもしのぐようにしたい」と述べられると、幣原首相(当時)が、マッカーサーへ御物の目録を差し出し、感激したマッカーサーは、「自分が現在の任務についている以上は、断じて日本の国民の中に餓死者を出すようなことはさせぬ。かならず食糧を本国から移入する方法を講ずる」と請け合ったといいます。
 昭和天皇の捨て身の御心が、マッカーサー総司令官の心を動かし、飢えた国民に食糧が届けられたのですが、それから約6年後の1951年4月、アメリカ本国のトルーマン大統領と対立するようになったマッカーサーは、大統領から更迭を指示され、日本を離れました。


 d. ) 日本とキリスト教

<参照>
 学研△ー7月号より転載。裏の日本史/天皇家はクエーカー教徒だったのか?
 創立者 河井道
 女学校設立の夢と情熱___天皇を戦犯から救いたい一念 キリスト教徒となった神官の娘
 クエーカー@ABジョージ・フォックス

神様は英国の祝福を蕩減するために日本に祝福を与えたので、日本は英国が失敗したことを蕩減しなければなりません。したがって、神様が日本を明治維新以後、経済大国として発展させたのは、英国の立場を蕩減して世界を救いなさい、というみ旨からでした。(「神の摂理から見た南北統一」111p)

 さて、これまで日本がエバ国家として英国の失敗を蕩減するために、明治維新がはじまり、当初は神様の(共生・共栄としての)理想(上記)をしていた大東亜共栄圏も日清・日露と戦争が度重なるなかで、(共義としての)方向を失い、日本はナショナリズム化すると神様の理想に反し、英国の失敗を繰り返す立場に立ってしまいました。
 しかし、終戦直後の朝鮮キリスト教の失敗とアメリカの失敗(上記)により、日本に節理が戻ってきたのは、それらの失敗もありますが、その時既に日本のキリスト教に新しい変化が芽生え始めていたからです。



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