復帰摂理歴史の真実
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 f. 韓国併合と伊藤博文


 朝鮮王公族―帝国日本の準皇族  新城道彦 著 (中公新書)

 1910年8月22日韓国併合条約に調印され、日本は大韓帝国を併合しました。最大の懸案だった皇帝一族の処遇については、王族・公族の身分を華族より上に新設し、解決を図りました。1945年8月の敗戦まで、男子は軍務に就くなど、皇族同様の義務と役割を担う。異民族ながら「準皇族」扱いされた彼らの思いは複雑であり、日本に忠誠を尽くす者、独立運動に関与する者など多様でした。本書は、帝国日本に翻弄された26人の王公族の全貌を明らかにします。



■ 併合論と伊藤博文

 1907年(明治40年)7月14日、対外強硬派の衆議院議員河野広中小川平吉、国家主義団体玄洋社頭山満ら6人は、建言書を政府に提出しました。その意見は、
  • 第一案(合併説) 「韓国皇帝に主権を日本に禅譲させ両国が合併する」
  • 第二案(委任説) 「現皇帝である高宗を譲位させ、統治権を日本に委任させる」
として、第一案を上策とするが、それが不可能な場合でも第二案をかならず断行すべきであるというものでした。
 しかし、伊藤統監は強硬論には耳をかたむけず、合併論をしりぞけて傀儡政権を持続させ、持論の保護国としての韓国支配をよりいっそう徹底しておこなおうとしました。
 記者会見でも伊藤は、「日本の政策は韓国を富強ならしめ、独立自衛の道をたて日韓提携するのが得策である」と述べていました。さらに、「合併は却って厄介を増すばかりで何の効なし」と語り、合併論を批判しました。
 すでに韓国の経済は破綻の危機に瀕しており、財政は窮乏していました。そのため日本が韓国を領有するとなると、多額の出費を覚悟しなければならなかったのです。

<参照>
1910年、朝鮮が植民地化された内的原因」(PDF) 李憲昶 高麗大学 経済学科教授(本サイト

 伊藤は統監就任以来、しばしば韓国の独立富強を口にしていました。イギリスのエジプト占領下の経営をになったクローマー提督の事業を範としていたといわれる韓国の国家改造政策は、日本の監理・指導・保護によるによる韓国の自治振興政策とよばれます。
一、司法制度整備
東京帝国大学教授・法政大学総理梅謙次郎を政府法律顧問として招き、法典調査局を設けておこなった法典編纂のほか、法官養成、裁判所・監獄の新設し、法治国家としての体裁を整え、それまでに韓国が諸外国とむすんでいた不平等条約中の治外法権の撤廃をめざしました。
二、韓国中央銀行の設立
1905年以来、日本の第一銀行がはたしてきた韓国の中央発券銀行としての業務を停止し、1909年あらたに中央銀行としての韓国銀行(1911年朝鮮銀行と改称)を新設。
三、教育振興
韓国が儒教一辺倒の教育からぬけだして実用的な国民教育の方針を掲げたのは、1995年の甲午改革における教育立国宣布の詔勅によりますが、依然、民衆教育の中心は私塾である寺子屋にような書堂での儒教的小宇宙の教育であり、近代教育からへだたっていました。伊藤は、東京高等師範学校教授三土忠造を学部参与官として教科書を編纂させるとともに、国民の識字率の向上を目的として普通学校(小学校)をはじめ各種学校の振興をはかりました。
四、殖産興業
資源開発の諸施策は多方面にわたり、拓殖を目的に国策会社として1908年に設立した東洋拓殖会社は、日本政府が8年間毎年30万円を補助して社債2,000万円の元利保証をおこない、韓国政府は資本金1,000万円のうち300万円相当分を田畑による現物支出するというもので、総裁には陸軍中将宇佐川一正が就任しました。
 儒教的小宇宙」とは、「理気説」つまり、(偏在する法)と(活動する精神)の宇宙の二つの原理、すなわち陰と陽についての新しい解釈すなわち単独で働くものとしての陰にはじめて重点のおかれた解釈で、新儒教としての道教、仏教および儒教の思想を融合した考え方です。
 唐末の道教哲学者陳摶に見るごとく、主として道教的精神によって活動したものです。


<参照>
太極図
新儒教の「理」の原理と統一認識論 (PDF)  清心神学大学院教授 トマス・セローバー



(左図は1880年代のソウル南大門大通り)
 1909年、伊藤は保護国経営政策結実のため純宗皇帝に陪従して凍寒の1月7日13日南部地方1月27日2月3日北部地方で抵抗する民衆の民心一新のため、妨害にあいながらもデモンストレーションをおこないました。しかし、義兵闘争はますます激化し、日本人のあいだから保護国経営を韓国本位との声があがり、2月23日には衆議院本会議で猶興会が改組した又新会大竹貫一が、伊藤の失敗を逐一とりあげ、統監政治を攻撃する長広舌の演説をおこないました。
 韓国で併合推進を唱える一進会も伊藤にゆさぶりをかけました。一進会は1904年宋秉ジュンが組織した維新会と、東学教徒李容九が組織した進歩会とが、合同して結成された親日団体です。

  李容九は1905年、孫秉熙が天道教を創始すると、これに対抗して侍天教を興して東学正統を主張しました。(「東学・天道教と統一原理」参照)

 一進会が日本の国家主義団体黒竜会主幹の内田良平を通じて、山縣有朋や桂太郎首相と深い関係をもつようになり、1907年5月の李完容内閣の組閣にあたって、宋秉ジュンが農商工部大臣として入閣しました。しかし、伊藤には当面の政策方針に併合の予定がないことを知ると、宋秉ジュン・内田らは伊藤の統監辞職と内閣倒壊をはかりました。
 1908年6月、宋秉ジュンは農商工相辞任を申し出て、自分の辞職によって内閣を混乱させ、その責任を伊藤に負わせることで内閣を崩壊させようとした狙いは失敗に終わりましたが、伊藤は一進会との絶縁を決意すると、李完容首相の宋秉ジュン追放工作に同意し、1909年2月、宋秉ジュンは内相を解任されました。



 保護国経営をめざした統監政治が思わぬ障害に遭遇して、伊藤は韓国統治にたいする意欲を喪失し、1909年5月下旬、統監の辞表を天皇に提出しました。6月14日付けで4度目の枢密院議長に転じた伊藤は、事務のひきつぎのため、7月1日韓国へわたり、漢城滞在中にみずから指揮して「韓国司法及監獄事務委託に関する覚書」に調印(7月12日)し、韓国軍部廃止勅令公布7月31日)をおこなわせました。韓国の司法・監獄事務の日本への委託は、伊藤が韓国の法治国家化をめざしておこなってきた政策を放棄し、韓国の法権を奪うことを意味します。これにより韓国法部(法務省)は廃止され、かわってあらたに設置された統監府司法庁・裁判所・監獄が法権を行使することになりました。
 また、軍隊解散によって皇宮警衛の歩兵一個大隊、騎兵一個中隊しか現存しない韓国軍隊の現状からして不必要な軍部は廃止され、親衛府を新設させました。  こうして伊藤は、つみあげてきた保護国構想をみずから壊し、韓国を去りました。


■ 韓国併合へ向けて

 1909年4月10日、伊藤の併合路線への転換を確認したとき、桂首相と小村外相は、対韓方針と対韓施設大綱を伊藤に提示しました。

<対韓方針>
第一、適当の時期に於て韓国の併合を断行すること。
第二、併合の時機到来する迄は、併合の方針に基き、充分に保護の実験を収め、努めて実力の扶植を図るべきこと。
<対韓施設>
1. 秩序維持のため軍隊駐屯と憲兵・警察力の強化。
2. 外交権の掌握。
3. 韓国鉄道と満鉄との連絡。
4. 日本人の殖民
 この対韓方針案は7月6日の閣議で決定され、天皇の裁可をえました。これによって小村外相は、併合実施の順序方法として併合宣言、韓国皇室の処分、統治のあり方、対外関係などについてまとめ、桂首相に報告し閣議で了承されました。



 韓国併合にたいしてロシア・イギリス両国から同意をえると、1910年6月3日、政府は閣議で「併合後の韓国に対する施政方針」を決定しました。
 これによると、日本の朝鮮統治権は憲法によって規定されるのではなく、天皇大権による、とされています。したがって憲法の効力がおよばない朝鮮には「大日本帝国憲法」が定めた、兵役義務、人権の保障、国民参政権、行政権と立法権の分立、司法権の独立等の近代立憲制の諸規定は適用されません。もしも日本の韓国併合に、朝鮮の未開と停滞をひらく文明史的意義がある、というのであれば、何よりもまず帝国憲法のもつ近代的部分を朝鮮にもちこまなければなりませんでした。しかし、朝鮮は天皇大権にもとづき植民地統治の委任をうけた総督が、独自に法律相当の令を発することができる違法域とされたのです。
 こうして天皇にたいしてのみ責任をもつ朝鮮総督は、本国政府・議会から拘束されずに「一切の政務を統轄するの権限」すなわち行政権と、「法律事項に関する命令を発するの権限」すなわち立法権を集中する専制的な権力をもつことになりました。
 1910年5月30日寺内正毅(陸軍大将)が第三代統監となり、8月22日韓国併合条約の調印が成されました。9月30日には勅令として「朝鮮総督府管制」が公布され、これによって、総督は陸海軍大将をもって任じ、委任の範囲で陸海軍を統率、朝鮮の防備を指揮し、その政務は内閣総理大臣をへて上奏、裁可をうけると規定し、朝鮮植民地行政は本国政府省庁の監督をうけませんでした。
初代統監
伊藤博文(1906年12月21日〜1909年6月14日)
第二代統監
曾禰荒助(1909年6月15日〜1910年5月30日)


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