復帰摂理歴史の真実
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 このようにしてヨセフは父の家族と共にエジプトに住んだ。(創世記50章22節)

 けれどもイスラエルの子孫は多くの子を生み、ますますふえ、はなはだ強くなって、国に満ちるようになった。
 ここに、ヨセフのことを知らない新しい王が、エジプトに起った。彼はその民に言った、「見よ、イスラエルびとなるこの民は、われわれにとって、あまりにも多く、また強すぎる。さあ、われわれは、抜かりなく彼らを取り扱おう。彼らが多くなり、戦いの起るとき、敵に味方して、われわれと戦い、ついにこの国から逃げ去ることのないようにしよう」。(出エジプト記1章7節〜10節)


歴史再検証 日韓併合 崔基鎬

 「史実を世界に発信する会」の紹介ページ

 ―― 植民地時代に韓国民衆の生活水準が上昇したということか?
「そのとおりである。何よりも人口が増えた。十九世紀以来、減少する一方だった人口が、二十世紀に入り増加傾向に変わった。  人口の動向は、衛生環境や伝染病などとも関連があって、それ自体が直接的資料とはいえないが、当時の経済状況を推定する資料になる。植民地時代、韓半島の人口は、その以前の一七〇〇万名から三〇〇〇万名(海外移住三〇〇万名除外)に増加した。これは、経済力が高まった証拠だ」 (一部抜粋)



 韓国に新教が渡って来てから何年目でしょうか。百年にもならないのです。三十年から六十年の段階へと超えていくとき、キリスト教は迫害圏内に入っていかなければなりません。この時が日本統治下の時代です。キリスト教が迫害を受けてきたために、韓国のキリスト教も国家的な迫害を受けなければなりません。また、今までキリスト教が蹂躙されてきたために、特定の国としてみ旨を受け継ぐことのできる国は圧政と圧制を受ける国家にならなければならないのです。イエス様の時、イスラエルの国がそうでした。そのような条件に符合する国が韓国です。そのため、韓国に主が来られるということは、心霊的な人々はみな知っている事実です。(神様の摂理から見た 南北統一 231P)



■ 日露戦争下の日韓関係

関連するこれまでの内容
 6. “時”の到来
  1. 幕末以後の日本
   f. 日本と東アジア情勢 (韓国キリスト教編
   g. 日本と東アジア情勢 (韓国・中国・ロシア編)
  2. 激動する東アジア
   a. 日清戦争
   b. 日英同盟締結
   c. 日露戦争




 韓国併合 海野福寿

 1910年、日本は韓国を「併合」する。
 明治維新以来、朝鮮をみずからの権益圏にとりこむことを国策としてきた近代日本は、列強との利害調整をくりかえしつつ日清・日露戦争をへて併合を強行した。
 朝鮮国家と民衆の抵抗を排除しつつおしすすめた植民地化の全過程はどのようなものであったか、戦後五十年を考えるためにも必読の書。


日露戦争と韓国の局外中立

 1903年8月、日露の緊張がたかまるなかで、内臓院卿・度支部協弁李容翊らは“戦時局外中立論”をとなえました。韓国政府もその方針をとり、諸国の承認をうるため対外工作を開始しました。
 9月3日、駐日韓国公使高永喜から韓国中立保障要請を受けた小村壽太郎外相は、9月26日に、「平和維持と友好に努力している現在、戦争を口にして中立を論ずるは“時機に適せざる義”」と要請を拒否しました。
 一方、大韓光武皇帝高宗はただちに密使を芝罘に派遣し、1904年1月21日に同地から韓国外部大臣名の電信を各国政府に送り、韓国の戦時局外中立を宣言しました。
 中立国が有する領土主権にもとづく権利には、
  • 領土・領水内における作戦行動の禁止
  • 交戦国軍隊の通過禁止
  • 交戦国の港湾使用禁止
  • 交戦国の自国内への避難防止
などがふくまれ、対露戦を準備中の日本にとって作戦計画のすべてを失うことを意味していました。
 また日本政府は、韓国と秘密同盟締結交渉をすすめており、調印寸前で高宗皇帝から“中立声明承認とひきかえに秘密同盟に承認する”という条件を提示され、交渉を中断せざるをえませんでした。
 韓国政府の中立声明にたいしてイギリス・フランス・ドイツ・イタリア・デンマーク・清が承認したものの、日露開戦にともなう日本の韓国中立侵犯を黙認しました。


日韓秘密協定締結と保護国化

 日露戦争を前にして小村外相は、日清戦争時のような協定を韓国とむすぶ必要があるとしましたが、駐韓公使林権助(左図)は、排日的な高宗皇帝をささえる中立論者の李容翊らの反対を予想し密約締結の困難なことを述べていました。
 11月30日、林公使は高宗皇帝に謁見し、日韓協定の必要を密奏し、交渉代表者の任命を要請しました。
 独立保障を求める韓国側と攻守同盟または保護条約を求める日本側の主張とは、氷炭あいいれないなかで、韓国政府要人にたいする買収、脅迫など手をつくした結果、1904年1月20日までに李址鎔外相、閔泳軍相、李根沢元帥府会計官総長とのあいだに協定案がまとまりました。最終段階で協定は「日韓議定書」と名づけられ、高宗皇帝からの委任を記さず、韓国外相と林公使との記名による議定書 Protocol とすることになりました。内容は、まず、「相互対等の緩急互いに相扶掖すること」をうたったうえで、
  • 韓国皇帝の安寧
  • 韓国独立
  • 領土保全
を日本が保障し、第三国との国際協定締結の事前承認を双務規定したもので、林原案にあった軍事協力を直接規定する条項は除外されました。
 調印は、韓国政府が日本政府にたいして「日韓議定書」の調印とひきかえに局外中立の承認をせまったために、窮地に立たされた小村外相は調印を見送らざるをえませんでした。韓国では、交渉にあたってきた李址鎔外相と閔泳阜R相が罷免され、局外中立を推進した李容翊が度支相(蔵相)に起用されました。



 日本政府が韓国保護国化を政策として掲げたのは、1901年(明治34年)6月成立の第一次桂太郎内閣の「政綱」が最初で、「韓国は保護国となす目的を達すること」とされていました。
 壬午事変以後、日清戦争にいたるあいだの清国の朝鮮支配は、宗主権に名をかりた帝国主義的保護国化をめざしたものでしたが、保護をあたえる国が被保護国の外交権の一部あるいは全部を奪い、外交機能を代行する関係は、たとえ被保護国がその他の主権を保持していたとしても、その国家は国際法上の主体ではなくなります。韓国の保護国化方針には、韓国の外交権を侵害することによって成立するため独立の否定につながり、一方で独立を保障するというのは、本来的な矛盾をかかえもっていたことになります



 1904年2月10日、対露宣戦の詔勅が発せられ、ロシアの宣戦布告し日露戦争が開始されると、2月13日から林公使と李址鎔との交渉が再開されました。李址鎔は外相を罷免されましたが、後任の朴斉純駐清公使が着任するまで外相臨時署理(代理)の任にありました。
 2月13日に林が作成した日本案は、
大韓帝国政府は、全然大日本帝国に信頼し、大日本帝国政府の助言を受け、内治外交の改良を図るべし」(第一条)
と明文化しました。また、前案にはなかった軍事協力条項をあらたに設け、
第三国の侵害に依り、若しくは内乱のため大韓帝国の皇室安寧或いは領土保全に危険ある場合は、大日本帝国政府は、速やかに臨機必要十分なる便宜を供する事」(第四条)
としました。これは日本軍の不当な軍事占領を合法化するとともに、以後の戦略展開にたいする韓国の協力を義務づける項目となったのです。
 さらに日本政府は、林案第四条に
大日本帝国政府は、前項の目的を達するため、軍略上必要の地点を占有することを得べし
をつけくわえ修正しました。韓国政府内では、李容翊度支相らが、日露戦争にロシアが勝利したばあい韓国侵略の口実になる、としてつよく反対しました。
 韓国皇帝・政府内外の反対のたかまりと外国の干渉をおそれる日本政府は、即時調印を韓国側に求めました。2月22日、李址鎔外相臨時署理は、記名調印した「日韓議定書」を林公使へ送り、日本政府から調印実施の訓令をうけた林がただちに調印しました。日本では政府決定と天皇裁可だけで処理し、枢密院への諮問を省略したため、枢密院副議長東久世通禧以下15人の顧問官から政府の手続き上の失当を追求される、という拙速でことがはこばれました
 調印に反対した李容翊は、日本軍に拉致され、遊覧の名目で日本に移送されて、約10ヶ月の軟禁を強いられ、度支部大臣兼内蔵院卿の要職はすべて解任されました。
 「日韓議定書」はもともと密約とする予定でしたが、調印までに「公然の秘密」となり、新聞も概要を報じました。日露開戦により、もはや秘密の必要はなく、日本政府は2月27日、韓国政府は3月8日それぞれ『官報』に公示されました。
 韓国内では反対の声がたかまるようになると、3月17日、枢密院議長伊藤博文が特派大使として(名目は天皇名代の韓国皇室慰問)漢城にのりこみ、3月18日慶雲宮で皇帝に謁見しました。伊藤は「日韓議定書の履行と、それを妨害するものの排除を強要しました。宮内府大臣閔丙ソクを通じて奏達した文中には、
  • 韓国兵の反抗があれば敵国とみなす
  • 韓国の態度が不鮮明であれば兵力を数倍にする
といった威嚇する言辞がありました。
 帰国に際しての謁見で、天皇への伝言をうながした伊藤にたいし、高宗皇帝は
「今や日韓両国の関係は、議定書に由って確定せり。我国の執るべき主義方針も亦之に一致するを要す。朕は我臣僚を率いて此主義の下に日韓提携の実を挙げんことを期す」
と、屈辱的なことばを呈さなければなりませんでした。

<参照>
 資料:日韓議定書・第1〜3次日韓協約・韓国併合条約



 韓国民にとっての日露戦争は、ロシア軍とのたたかいではなく、日本軍とのたたかいでした。鉄道用地・軍用地の強制収用をはじめ、人馬・食料徴発が民衆に植民地化の危機を実感させたのです。
 1904年9月14日、京畿道始興郡で数千の群衆が完成まぢかい京釜鉄道の軍役人夫徴発に反対して群衙を襲い、郡守と日本人二人を殺害しました。9月25日には黄海道谷山郡でも建設中の京義鉄道の軍役人夫徴発をめぐって数千の群衆が日本人と衝突し、日本人七人と朝鮮人一人を殺害しました。
 これらの「暴動」は各地で日常的に頻発したため、手を焼いた駐箚軍司令官1904年7月2日には軍律(占領軍が公布する一般民衆にたいする取り締まり令)を公布しました。これには「軍用電線、軍用鉄道に害を加えたるものは死刑に処す」、「情を知りて隠匿するものは死刑に処す」とし、さらに電信線・鉄道など軍用施設の保護を地域の責任とし、被害を生じて加害者逮捕ができなかったばあいは、村長や保護委員を「笞罰(むちうち)又は拘留に処す」という苛酷な内容でした。


保護国実質化

 韓国植民地化が着々と進行するなかで、外交上の画期をなすのが、1904年(明治37年)8月22日調印とされる「第一次日韓協約」です。
 「第一次日韓協約」が『官報』に公示された9月5日、日本政府は英文で「日韓協約に関する日本政府声明」を発表し、「日韓議定書」により韓国外交について監督の義務を負った日本が、韓国に対し「諮問的発言」をおこない、国際的問題について「助言」するため外交諮問をおいた、と説明しました。
 しかし、これは日本の韓国侵略から外国の目をそらさせる偽装にすぎず、林公使が「議定書の各条を広義に且つ我が利益に解釈して韓国政府の行動を一に厳密に監督する」と述べたとおり、外交権の実質的掌握のみならず、財政を中心とした韓国内政の植民地的編成をはかる意図にもとづいていました。


列強の合意に向けて

 奉天会戦のあやしげな勝利の幻想に国民が酔っていた1905年(明治38年)4月、政府は講和条件と韓国経営の検討をはじめていました。
 4月8日の閣議で決定し、10日に天皇が裁可した「韓国保護権確立の件」は、戦後の韓国支配のあり方として保護国とすることを具体的に示した方針書です。事実、行財政の実権掌握と並列ではなく、外交権の奪取を第一にあげ、「此の際一歩を進めて韓国に対する保護権を確立し、該国の対外関係を挙げて我の掌裡に収めざるべからず」としました。韓国と締結すべき保護条約は、つぎの四点をふくむものとしたのです。
  1. 韓国の対外関係は全然(すべて)帝国に於いて之を担任し、在外韓国臣民は帝国の保護に帰すること。
  2. 韓国は直接に外国と条約を締結することを得ざること。
  3. 韓国と外国との条約との実行は、帝国に於いて其の責に任ずること。
  4. 帝国は韓国に駐箚官を置き、該国施政の監督及び帝国臣民の保護に任ぜしむること。
 ここでいう保護権の設定は、国家間のあいまいな保護関係ではなく、近代的保護関係として韓国の外交権を全面的に日本が奪いとることであり、韓国の国際法上の独立を否定することを意味します。
 しかしそれは、日韓間で保護条約をむすべばよいというものではなく、諸外国の承認がなければならないため、日露戦争勝利のときを、列国の支持を得る機会としたのです。



 @ 日英同盟協約の改定

 「韓国保護権確立の件」を決定した同じ日の閣議は、「日英同盟協約」の継続と改定の方針を決定し、その交渉を開始することとしました。
 1902年1月30日に調印した第一回協約は、前文で清国・韓国の「独立と領土保全」および諸外国の商工業活動の機会均衡をうたい、清国・韓国が第三国の侵略を受け、または内乱が発生したばあいには、日英両国は必要な措置をとることを承認する(第一条)としました。日露戦争にさきだって調印されたこの「第一回日英同盟協約」は、日本の韓国支配をイギリスが認めたわけではなく、日本政府には別款として、日本が韓国で「優勢なる利益を擁護増進するため適当な措置を採る」ことをイギリスが承認する、という条項を提案しましたが、交渉にあたったランスダウン外相は受け入れませんでした。韓国における日本の「自由行動」が「侵略の方針」に転じ、ついで日露の衝突を招くのをおそれる、というのがその理由でした。イギリス側は、第一条冒頭に「両締約国は、相互に清国及び韓国の独立を承認したるを以って、該二国いずれに於いても、全然侵略的趨向に制せらるることなきを声明す」と、不可侵宣言を掲げることを求めて譲りませんでした。

 「日英同盟」協約交渉とランスダウン外相 (PDF)  川村学園女子大学教授 藤井信行 (本サイト

 日露戦争は、日本の侵略主義を隠蔽するために、ロシアを侵略者に仕立て、日本は韓国の独立と領土保全のために戦う、と戦争目的を正当化しましたが、もはやこのたてまえの論理は韓国保護国家の方針を決定した日本政府には邪魔にこそなれ、必要ではなくなったのです。



 日英同盟の改定が急がれました。1905年8月12日調印の「第二回日英同盟協約」は、イギリスのインド領有と国境防衛措置を日本が承認することとひきかえに、日本の韓国支配をイギリスが」承認するとともに、両国の軍事攻守同盟関係を明確にしたもので、第一回協約で明記された、韓国の独立保障、領土保全、不可侵などはまったく消去され、韓国における日本の立場は第三条でつぎのように示され、イギリスは日本による韓国保護国化を認めました

日本国は韓国に於いて政事上、軍事上及び経済上の卓絶なる利益を有するを以て、大ブリテン国は、日本国が該利益を擁護増進せむが為、正当且必要と認むる指導、監理及び保護の措置を韓国に於いて執るの権利を承認す……



 A ポーツマス交渉

 日露講和交渉は1905年8月10日からアメリカのポーツマスで開かれました。日本側全権委員は小村外相と駐米公使高平小五郎、ロシア側はヴィッテと駐米公使ローゼンでした。
 韓国問題は交渉開始後まもなくとりあげられ、ヴィッテは韓国における日本の「自由行動」を容認しながらも、条文に「韓国皇帝の主権を侵害すべからざること」を挿入することを要求しました。韓国の独立と主権にかかわる重要事項を日露間で協定することは国際法上不当である、という正論でした。
 小村全権との論争のすえ、「日本国が将来、韓国に於いて執ることを必要と認むる措置にして、同国の主権を侵害すべきものは、韓国政府と合意の上、之を執るべきことをここに声明す」と会議録に書きとどめることで妥協が成立しました。日本の韓国保護国化には、韓国政府との「合意」が前提であることを確認し合ったのです。
 しかし、9月5日調印の「日露講和条約」第二条には、日本の韓国支配が明記されました。

露西亜帝国政府は、日本国が韓国に於いて政事上、軍事上及び経済上の卓絶なる利益を有することを承認し、日本帝国政府が韓国に於いて必要と認むる指導、保護及び監理の措置を執るにあたり、之を阻礙し、又は之に干渉せざることを約す。



 B アメリカの了承

 日露講和交渉開始直前の1905年7月29日、桂首相は来日中のアメリカ陸軍長官タフトと会談し「桂・タフト協定」を結びました。それは、アメリカのフィリピン統治と日本の韓国に対する保護権設定を相互に認め合う内容でした。そして8月7日に、ルーズベルト大統領(左図)がこの協定を承認した通告を日本政府にあたえました。
 日露講和交渉のため滞米中だった小村全権は、調印後の9月9日、高平公使とともにルーズベルト大統領と会見し、小村が韓国と保護条約をむすぶ計画を述べあらためてアメリカの承認を求めると、ルーズベルト大統領は賛意を表し、「充分我に信頼せられて可なり」と回答しました。



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